川崎道民(かわさきどうみん)
天保2年(1831)~明治14年(1881)
佐賀藩医松隈甫庵の4男で、須古(すこ)鍋島家医師川崎道明(どうめい)の養子。大槻磐渓(おおつきばんけい)の家塾で蘭方医学を学び、佐賀藩医となった。
安政7年(1860)1月から万延元年(安政7年3月18日改元、1860)9月、江戸幕府が日米通商条約批准書(ひじゅんしょ)交換のためにアメリカのワシントンに派遣した使節団一行に、御雇医師として従者島内栄乃助と共に参加する。フィラデルフィア滞在中に写真館で写真術の指導を受ける。帰国後、師の大槻磐渓を撮影しているが、前年の安政6年(1859)には、江戸溜池中屋敷で10代藩主鍋島直正(なべしまなおまさ)を撮影した。(鍋島報效会(なべしまほうこうかい)蔵。)
文久元年(1861)12月から同2年(1862)12月、新潟・兵庫両港の開港および江戸・大坂両都の開市延期交渉と、ロシアとの樺太(からふと)国境画定交渉のため、江戸幕府がフランス・イギリス他に派遣した使節にも、医師として参加した。
ヨーロッパで新聞の公益を認め、明治5年(1872)に佐賀で「佐賀県新聞」を発行する。横浜で日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」が発行された明治3年(1870)の2年後のことである。県立図書館には道民による明治5年7月24日付けの新聞活版所開業願書が残されている。しかし、「佐賀県新聞」はわずか2ケ月で廃刊となったが、その後も出版活動を続けた。
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