山口良忠(やまぐちよしただ)
大正2年(1913)~昭和22年(1947)
福治村出身。小学校教師山口良吾(後に八坂神社宮司)長男として出生。昭和9年(1934)京都帝国大学法学部法律学科入学、大学院在学中の同13年(1938)11月に高等司法試験に合格、同16年(1941)6月に判事となる。
第2次世界大戦終戦後の昭和21年(1946)10月、東京区裁判所第14刑事係の経済犯専任裁判官となり、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。
配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いにより、1946年(昭和21年)10月初め頃から闇米を拒否するようになる。山口は配給のほとんどを2人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した。自ら畑を耕してイモを栽培したり栄養状況を改善する努力もしていたが、次第に栄養失調に伴う疾病が身体に現れてきた。しかし、「担当の被告人100人をいつまでも未決でいさせなければならない」と療養する事も拒否した。そして、1947年8月27日に地裁の階段で倒れ
昭和22年(1947)9月1日に2件の判決を言い渡した後、同月7日に白石町(昭和11年4月1日町制)へ帰郷し療養するも、10月11日、栄養失調に伴う肺結核により33歳で死亡。
八坂神社境内には、『病中日記』に記された短歌をもとにした「帰り幾し古里のそ羅かくばかり青かりしとは志らざしか奈」を記した歌碑が建てられている。
参考文献:山形道文『われ判事の職にあり』昭和57年初版
※ 写真画像について、無断転載を固く禁じます。
このページに関するお問い合わせ先 生涯学習課 生涯学習係 電話(直通):0952-84-7129